平成15年8月雨の光岳> 松山朝夫

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旧「静高平」 7月25日

新「静高平」 設置作業 8月13日

橙色のカッパを着ているのが 光小屋主人 原田氏

青い服は 手伝いの三野氏

雨に濡れる「静高平」

初代と二代目の「静高平」

初代の剥落部分は 原田氏がマジックで塗ってくれていたので、写真では問題なく見える。

新「静高平」製作者 鈴木夫妻

(おまけ)林道でまむしをつかまえ PETボトルにいれる。
一匹5千円で売れる。

8月10日(日) ゆきつけのホテルが満室なので、大枚をはたいて静岡駅前アソシエに前夜泊まり、新静岡センター発5時40分畑薙ダム行きの一番バスに乗る。
1時間乗車した横沢で、その先の道路が1時間前土砂崩れが発生し通行不能とのことで、バスは静岡まで引き返す。
浜松の伊藤英利君に電話し、身延線で甲府に廻り、飯田遠山川の易老渡から光岳を目指す事を告げる。
今回、新しい「静高平」の標識を作って頂いた伊那市の友人鈴木宅へ午後2時過ぎに着き泊まる。丁度その日は私の縁で夫妻が互いに初めて会って1年経った日だったので、偶然を喜び杯を重ねた。

8月11日(月) 伊那から飯田駅前まで鈴木夫妻が車で送ってくれる。そこから易老渡の手前までタクシー。その先は台風10号による崩落で車は入れない。電車から降りてくる登山者を待ったがいないので相乗りができず北又渡へ。1万1千円支払ったが、これでも4千円まけてくれた金額。運転中本社と連絡とった結果で親切な良い運転手だった。
車を降り北又渡から1時間歩いて10時易老渡。途中大小9箇所の土砂崩れがあり道路はズタズタである。
好天であったが、その時間から光岳小屋までは時間的に無理なので、そこから30分の新装なった聖光小屋(元便ガ島小屋)へ行ったり、ショベルカー2台による道路復旧工事を見て過ごし易老渡駐車場でテント泊。

8月12日(火) 朝まだ暗い5時前出発し、ランプを照らしながら急登2時間で面平に着いたが雨が降りだし、テントの中で様子を見る。この雨がこの後5日間降り続く雨の序幕だった。5時間経った12時、小降りになったので出発。
この尾根は一本調子の登りで好きなのだが、やはり最後は少し苦しい。易老岳4時半、静高平はランプで通過し7時半消燈した光小屋着。小屋では7月25日同様原田さんが自室に招いて下さりビールと夕食の歓待を受ける。強い雨の中テントを張り9時就寝。

8月13日(水) 7月25日運び上げた標識 新「静高平」は、原田さんが2本の杭で固定し、現地に埋めるばかりになっていた。原田さんと手伝いの三野さんと三人で静高平に行き、旧「静高平」を引き抜き、すぐ近くの新たな場所に穴を掘り新「静高平」を設置する。
新「静高平」は、旧と同じ欅で小振りになったが、茂呂大先輩の書体とその大きさはいささかも変わりはない。文字を彫り込んだ標識なので消えることは当分はない筈だ。標識を作成した鈴木夫妻、設置作業をして下さった原田さんにただ感謝である。
その日は静高平の西にある「風見の丘」という小高いピークへ行く。這松と砂礫の処女地だ。その南には静高平のような窪地の別天地がある。また原田さんは光岳頂上へ行く人に知られていない道の途中に、センジガ原と遜色ない大きさの草地があることをこっそり教えてくれた。
その日も夕食を招いて下さる。私が土産に持ってきた日本酒2.2リットルは原田さんがビールしか飲まないので三野さんと私で飲んでしまうことになった。

8月14日(水) 昨夜から一段と強い雨となりテントの雨音がそれを表している。今日の深南部行きは断念し1日中テントの中で過ごす。夕食は前夜と同じく原田さん夫妻、三野さん、アルバイトの真弓さんと共にする。

8月15日(木) テントの中は水浸しでエヤーマットの上しか居れない。テントの隅をナイフで穴を空け、溜まった水をコンスタントに外に流すようにした。
今回のような梅雨明けの長雨はあまり経験がない。しかしこの雨の中でも登山者は来て去って行く。

8月16日(金) 静岡―畑薙ダム間のバスが開通したことを知り下山することにした。原田さん夫妻に心からのお礼を述べ5時半小屋を後にする。
光岳から茶臼岳の道は樹林帯の稜線ながら、所々草地や小さな池があり気持ちをやわらげてくれる。
5時間かかり風雨の茶臼岳頂上。ここから見る上河内岳までのゆったりとした眺めが好きなのだが、今は白いガスで何も見えない。
茶臼小屋に顔をだし、ひたすら樹林帯を下って12時、1750m付近で休んでいる時携帯の着信のメロディーがザックの中から聞こえる。静岡市在住の静大時代からの友人からだった。決めていたより1日早い受信だったが、場所柄奇跡に近いと云って良いだろう。(南アルプス南部は非常に限られた場所しか交信できない)。勇気ずけられ横窪小屋に12時半到着。
昔の横窪小屋を知る者にとってその変貌振りには驚かされるだろう。実にニートな小屋になっている。
そこから1時間下のウソッコ沢小屋は無人となっていた。道は上河内沢沿いになるが、上河内は普段と異なり沢身一杯に音を響かせ白く流れている。数カ所崩れていたが通過に苦労はなかった。ヤレヤレ峠を過ぎ187mの畑薙大吊橋を渡り1時間歩いた沼平のゲートで、疲労でザックの上でのびていると、見かねたのか5時、ゲート番の老人がゲートの遮断機を下ろした後、車に乗せてあげると云って来て、畑薙ロッジまで乗せてもらった。もし歩けば2時間はかかっただろう。
畑薙ロッジは清水、静岡、浜松の三組の釣の夫婦がいたが、1番風呂に入れてくれたり、煙草を分けてくれたり、岩魚酒を振舞ってくれたりロッジの栗下さん夫妻共々今時このような親切な人がいるのかと思うほど暖かいもてなしを受けた。
70才の栗下氏は井川の人なので、昔のことを色々聞くことができた。(注1,2)

8月17日(土) 畑薙ダム発9時40分のバスが急行で、畑薙ロッジに止まらないので畑薙ダムまで車に乗車してバックする。バスの女の車掌が8月10日の時と同じで向こうから「やはり山へ行ったんですね」と声をかけてくれた。
静岡で泊まる。

8月18日8(日) あくれば快晴。市内の十数年振りの店で昼食。おやじさんが「頭が薄くなりましたね」と云いながらも私の名前を覚えてくれていたのは嬉しかった。午後東海道線普通電車のグリーンで帰宅。


今回は夜叉神峠から秋葉山まで18日間の南アルプス完全縦走が目的で、不案内な深南部については祐島君から貴重な情報も貰っていた。しかし出発1日前、不覚にも実験中事故で左手を怪我をし、抜糸後計画より10日遅れの縮小した深南部山行となった。結果的には雨で深南部も行けず、新「静高平」の設置のみの山行となった。
しかし今回は、行く先々で人の暖かい気持ちや情けに触れ、山と等しく感動を得、忘れられない山行となった。山は悪天候の時は、こういう見返りをしてくれるのだと思った。

(注1) 昭和34年10月 文理山岳部 橋本、平沢(故人)、広瀬、田辺(故人)、大賀の諸君と松山は「信濃俣河内より光岳」の山行を行なったが、信濃俣河内出会で、「明さん」という人に信濃俣河内の情報を色々聞いた。その「明さん」がまだ井川におられる事。
(注2) 昭和36年3月、同じく山田硅二君と松山は荒川から茶臼まで縦走した。沼平で、近道をしようと思って今はダム底の大井川を渡渉しようとして難儀している時、「今夜は私の家に泊まりなさい、明日渡渉を手伝ってあげる」と云って、その夜は鹿肉、焼酎など御馳走になり泊めてもらったことがある。その人は「青木」さんと云い、本人は亡くなったが息子さんが、井川と田代の間の大島におられる事。